2008年8月12日(火)
1.そして朝を迎える
朝、体温計を借りて測ったところ37.2℃。昨夜よりは少し下がっていますが、それよりも呼吸がまともにできないのが気になります。咳があいかわらず続き、息も苦しい状態で、症状はさらに悪化していると思われます。小屋の人が様子を見に来られました。ヘリの要請も可能とのこと。その人は遭対協にも所属されているようで、高地性肺水腫についても詳しく、ちょっと安心しました。高度を下げることがこの病気で重要だということも認識されています。
私の体は相当参っていましたが、ヘリを呼んだ場合、費用のことがどうしても頭をよぎります。横尾まで歩くことができれば、そこまでは作業用の車は入ってこれるでしょう。最悪、そこから救助要請することも可能かもしれないと考え、最初は自力で下山することを伝えました。とにかく、横尾までの1時間半を自力で歩いてみようと、この時は思いました。
山の朝は早く、小屋での朝食は、私たちが最後でした。しかし、食欲もありません。かろうじて味噌汁を流し込むのが精いっぱいでした。しばらく悩みましたが、横尾まで自力で下山する意志は変わりませんでした。しかし、小屋の2Fに荷物を取りに上がるだけでぜいぜいと息が切れるに及んで、自信がなくなってきました。これではきっと横尾への下山の途中で動けなくなるに違いありません。息子も私をおんぶして運ぶ自信はないと言っています。もし動けなくなったら、それこそもう最悪です。そこは谷間でヘリが飛んでくることができません。もう私の気持は固まりました。小屋の人にヘリによる救助をお願いすることにしました。
怪我と違い、病気の場合は外からわかりにくく、無理をしてしまう可能性があります。この選択は、きっと正解だったと思います。小屋から、7:30、県警にヘリによる救助要請が出されました。到着が8:00という連絡が入り、そこから慌ただしくなりました。書類(女房が対応)や、誰が付き添いでヘリに乗るかなどを決め、小屋外のヘリポートで待機しました。小屋の人は、手際よくレスキュー隊の黄色のガウンを着て、ヘルメット、サングラスを着用してヘリの到着を待ちます。
2.ヘリを待つ
もうこうなると後は任せるしかありません。見上げると空の青が目に染みました。今日も天気が良さそうです。私の心とは正反対です。手先を見ると第2関節から先が真白になっています。今までにも、この病気になったことがありますが、その時は唇や指先が紫色になっており、先生が「チアノーゼがひどい」と言っていたのを思い出しました。今回は、まだそこまでにはなっていないようですが、昔のように若くはありません。過去二回入院していますが、どちらも最初はICUに収容されました。相当重篤だったに違いありません。とくに一回目は意識を失っているので、低酸素状態が続いていたのでしょう。脳浮腫になって障害が残るケースもあるようですが、幸い今までなにか後遺症を感じたことはありません(天然ボケがありますが、これは先天的なものです)。
![]() 子供達もお父さんの様子が心配です。小屋の中でヘリ要請の準備が進められていきます。 |
![]() 小屋外のヘリポートに移動します。 |
![]() ヘリが着陸します。すごい風圧です。小屋の人が身を挺して吹き飛ぶ小石から守ってくれます。 |
![]() ヘリに乗り込みます。 |
![]() 安全ベルトを締めて、すぐさま離陸です。この間、1分もかかっていません。 |
![]() 飛び立ちます。写真は娘が小屋の中から連写したものです。 |
槍沢ロッジは主要な登山道に面しています。ヘリが来るので、登山者の通行は8時5分前くらいから禁止になりました。そして8時ちょうどに爆音が聞こえたと思ったら、ヘリが突如谷間から顔を見せました。着陸態勢に入りますが風圧がすごく、体をかがめて待機していましたが砂や小石が飛び散って体に当たります。着陸後は風圧はましになり、すぐにヘリに乗り込みました。ヘリに同乗してくれたのは息子です。座席の安全ベルトを締めてもらい、30秒もしないうちにヘリは再び離陸しはじめました。小屋を後にして槍沢を下ります。瞬く間に横尾上空に来ました。穂高に眼を向ければ涸沢(からさわ)のカールがよく見えます。ヘリから後方を振り返れば、昨日行くのを断念した氷河公園の向こうに槍の雄姿がありました。普通では絶対に見ることのできない光景です。相変わらず咳は続いていますが、しっかりとこの目に焼き付けておきましょう。ヘリは梓川の上空をさらに南に下ります。徳澤を越えて明神から左に旋回し、徳本(とくごう)峠付近の山が低くなったあたりを越えて松本側に来ました。釜トンネルができて上高地に車で入れるようになる以前は、上高地には入るには、島々からのこのルートしかありませんでした。いつも地図を見ているので、このあたりの地形は頭によく入っています。ヘリは一気に稜線を越えるものだと思っていましたが、高度を上げないで鞍部をぬうように飛行しているのが意外でした。
3.入院
ヘリは高度を下げ、梓川に沿って飛んでいます。波田町(松本と上高地の中間あたり)の総合体育館のような施設の近くで着陸しました。槍沢ロッジを出て、約10分の飛行でした。そこにパトカーと救急車が待機しており、息子は、長野県警の人に行程や状況を説明しています。その間、私は救急車の中で酸素マスクを装着されました。いつまでも子供だと思っていましたが、父親の窮状に際し、とても頼もしく思えました。救急車の中でも、いろいろ状況を聞かれ、その情報が搬送される病院にも連絡されました。救急車に乗っている時間は短く、波田総合病院という設備の整った病院に5分くらいで到着したような気がします。すぐさま救急処置がなされました。酸素は10L/min(看護師さんの話では、けっこうすごい量がらしい)で供給されていましたが、モニターのSpO2(経皮的飽和酸素濃度)の数値は85%前後を示していました。少し落ち着くと90%くらいまで上がってきましたが、ちょっと動くだけで咳が止まらなくなり、数値は一気に低下します。検査のためにレントゲンとともに肺と脳のCTが撮られました。低酸素状態は脳にダメージを与えるとのこと。体を横にするのがつらく、咳が止まりません。動かないようにしてCTの検査をするのが一苦労でした。検査の結果、右肺が真白なことがわかりました。これは、肺に水が溜まっていることを示しています。息をするたびゴボゴボと音がするのも、この水が原因です。咳とともにオレンジ色の水っぽい痰が次から次へと出てきます。この水が引かない限り、苦しさは続きます。ただ、幸いなことに両肺ではなく、片方の肺は機能を保っているようでした。
昼ごろになると女房と娘が病院に来ました。私と息子がヘリに乗った後、二人で歩いて槍沢ロッジから横尾に下山しました。女房も昨日からの疲労と筋肉痛が残っており、中一の娘(次女)が母にかわり荷物を持ってくれたようです。ここでも子供が立派にその役割を果たしています。槍沢ロッヂからの連絡で、涸沢ヒュッテから下山した小屋関係の人に新村橋から車に乗せてもらったようです。上高地を過ぎ、車を停めていた沢渡の駐車場まで送ってもらい、しかも病院まで案内してもらったとのこと。本当に多くの人のお世話になり、感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいです。ようやく、病院で家族が揃いました。
![]() 酸素マスクがこれほど有難いとは思いもしませんでした。 |
![]() 付添のベッドには娘が寝ます。女房と息子は、病院の好意で談話室の畳の上で寝袋で寝ました。 |
![]() 指先につけているのはSpO2を測るセンサーです。心電図も同時にモニターされており、ナースセンターにも情報が送られています。 |
![]() 点滴や注射の針は刺したままです。毎回、経路に血液の凝固を抑制する液剤が満たされます。以前は、毎回、針を刺していたので、血管が腫れて、最後は足首から点滴をしたことがあります。 |
![]() 救急処置室。最初はここに運び込まれました。 |
![]() 病院の談話室から山や松本市内が望めます。病院のすぐ横には、松本電鉄の線路があります。 |
![]() 3泊4日で退院できました。 |
まるで夢のように過ぎたこの数日間でした。体重は、出発時に比べ5.5kg減りました。この体重は20年前の結婚する前の状態です。 |
入院初日は、酸素の供給量は10L/minのままでした。夜にはその状態でSpO2は95%くらいになりましたが、その供給量が減らされたのは2日以降でした。この病気で以前、ICUに入った時は、数日間、酸素テントの中で過ごしたことを思い出します。
2日目には、酸素の供給量が3L/minになり、SpO2も97%くらいにまで回復しました。その日のレントゲンでも、肺の白い影がだいぶ小さくなったとのこと。血圧も収容当時は150-90くらいあったものが、利尿剤や降圧剤の効き目もあり、ちょっと低血圧気味ですが、90-50くらいに下がりました。おかげで朝起きるのが、ちょっとつらかったです。ずっと熱がありましたが、3日目くらいに平熱に戻りました。
病院に早く収容されてよかったと思います。もし、これが横尾まで歩いていたとすると、きっとさらに重病化していたに違いなかったでしょう。たとえば子供が病気になったなら迷わずヘリの要請をしていたと思いますが、これが自分のことになると正直、判断が難しかったです。心の中で葛藤があったのは間違いありません。しかし、素人判断で、しかもお金が気になって無理を重ねると、もっと悲惨な結果になっていたと思われます。やはりヘリが正解だったと今では納得しています。
翌日、妹夫婦が夜を徹して兵庫から車で様子を見に来てくれました。そして子供たちを大阪まで連れて帰ってくれました。退院がいつになるのかわからなかったので、とても助かりました。感謝感謝です。息子が帰る時に、一人で病室に戻ってきてくれて、「お父さん、無理させてごめんやったな」と言ってくれました。きっと、肩の小屋への最後の登り、へとへとになっていた私を無理に歩かせたことを気にしていたのでしょう。何度も「もうアカン」と言う私に「お父さん、頑張れ」と言ったことを反省しているみたいです。彼が去った後、なにか涙がこぼれそうになりました。家族にとっては、今回のことは、山登り以上に貴重な経験になったに違いありません。これから家族の胸の中に、この記憶は刻まれることでしょう。
![]() 退院した後、近くの温泉に行きました。病み上がりで無理してはいけませんが、湯船にゆっくりと浸かりました。 |
![]() 車で女房と帰りました。中央高速道から夕暮れの雲を写したものです。何事もなかったように今年の夏も過ぎていきます。 |
入院して3日目に退院について先生と相談しました。経過がよければ4日目に退院しましょうとのことになりました。この病気は平地では発症しませんので、処置さえよければ回復が早いのも特徴です。退院後に近くにある温泉に行き、ゆっくり体を洗いました。なかなか出てこない私を女房が心配して、もう5分出てこなければ、施設の人に見に行ってもらおうと思っていたとのこと。ぬるいお湯でしたので、ゆっくりしすぎました。
その後、車で大阪に帰りました。中央自動車道、名神高速を乗り継いで5時間近く、交替で運転しました。退院早々の運転でしたが、高速でしたのでなんとか帰ってくることができました。
4.振り返ってみて
今回は過去に発症した中では、重篤なものでなかったかもしれません。19歳の夏、槍穂の途中の南岳で意識を失った時は、富山県警の山岳救助隊のサポートの中、夜中に担いで降ろされました(生命の危険があったので、現場の判断で夜中に行動し、それが報告されたのは朝になってからのことです)。高度を下げたのが幸いしたのか、途中で意識が回復し、槍平から新穂高温泉までヘリ、そこから高山の日赤まで救急車で搬送されました。この時はNHKのニュースや新聞で取り上げられていたそうです。これに懲りず、翌年の秋に単独行で穂高に登っているときに再度、発症しています。日本で再発した例は2例しかないというので、信州大学での研究に協力することで、治療費は免除されました。どちらも最初はICUに入れられたので、相当ひどかったに違いありません。この病気で毎年、何人か命を落としているようです。この他にも、自力で下山したものを入れると、さらに2回発症しています。今回入院した病院の先生は、「この病気は、鍛えて克服できるものではないので」と言われていました。私は、もう若くありません。一見健康そうに見えますが、子供のころから実は体が弱かったのです。自分の限界を知りました。
はじめは、「家族に山登りの醍醐味を味わってもらい、人生を豊かにしてほしい」と願って、この山行を計画しました。子供たちに「やればできる」ということを身をもって教えたかったのですが、結局、「無理は禁物」ということを学びました。家族一人一人に心底心配をかけて、本当に申し訳なく思います。私は、3000m級の山登りは、これで終わりにするつもりです。日本百名山を人生の目標にしていましたが、これもあきらめます。そのかわり、私はかけがえのないものを得た気持ちになりました。家族の絆と子供たちの心の強さです。本当に素晴らしい家族を再発見しました。もう、これだけで十分幸せです。
大学の実習の都合で、今回参加できなかった長女にも心配をかけました。大阪の自宅に一人残された状態だったので不安で不安でたまらなかったようです。ごめんなさい。
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山を想えば
人恋し 人を想えば 山恋し 山は好きです。でも、これからは、山を想うだけにします。 |
5.ヘリコプターの費用について
救助は民間のヘリで行われました。海難事故とは違い、山での遭難は個人負担になります。やはり、山岳保険のは入るべきだと思います。ただし、調べてみると、病気は除外されるようでした(ケガはOK)。したがって、今回のケースでは、山岳保険に入っていたからといって補填されたかはわかりません。病気が適用されるかどうかは、事前によく調べておいた方がよいでしょう。
今回、東邦航空のアエロスパシアルSA315B(ラマ)という機種が救助に来ました。遭難救助におけるヘリコプター料金というのが決められており、
・チャーター料、空輸料、スタンバイ料
の3つの料金体系でなっています。請求書が来る前に、ちょっと不安でしたのでネット検索していきますと、どこかの情報ソースがコピペされているらしく、チャーター料(511,500円/時)、空輸料(467,900円/時)、チャーター料(300,000円/時)という数字しか見当たりませんでした。しかし、私が請求された時間当たりの単価は、季節もあるのかもしれませんが、これと少し違います。また、上高地のヘリポートが基点にしてありましたので、思ったより費用がかかりませんでした。ここで私の数字を挙げると独り歩きしてしまうので、明細は公表しませんが、おそらく荷揚げ用のヘリが準備してあったので、それがうまく使われたのだと思われます。
飛行内容の内訳は、(上高地H〜槍沢ロッヂより要救助者収容〜扇子田H搬送 16分)(扇子田H〜上高地H帰投
10分)の計26分になっており、時間単価に26分をかけて、料金が出されています。北京オリンピックが終わった後、安くなった大型液晶TVを買おうと思っていましたが、ちょうどこの分で消えてしまいました。しかし、命はお金に換えることはできません。いろんな意味でラッキーな面がありましたが、大いに反省しています。たぶん、この病気でヘリに2度も乗った人は、日本中探しても、私以外におそらくいないでしょう。二度とこのような醜態をさらさないように、これからの人生、まともに生きていこうと思っています。